ロシアによるウクライナ侵攻が連日報道されており、ロシアが北海道周辺での軍事活動を活発化させているというニュースも出ていますね。今回は、北方領土問題について学びなおしてみましょう。
北方領土とは
そもそも北方領土とはどこのことでしょうか?
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の4つからなります。これは小学校のときに習った記憶がよみがえりますね。これらは、千島列島に含まれています。
また、北側に樺太(サハリン)がありますが、こちらも重要なので確認しておきましょう。
これら4島を合わせた面積は約5000㎢で、東京都+大阪府よりも大きい*1のです。
元々はアイヌなどの先住民族が住んでおり、1855年以降は主に日本人が住み、終戦後はロシア人が住んでいます。
ま、ザックリとはこんなところです。さて、ここから近代史を振り返っていきます。
アイヌとの交易
今から400年ほど前、松前藩が蝦夷(北海道)を支配しており、アイヌと交易を行っていました*2。
交易の中で、ラッコの毛皮があったのですが、ラッコは千島列島海域でしか獲れません*3。つまり、この時期には日本人は千島列島のアイヌと交易をしていたと考えられます。ちなみにラッコはアイヌ語です。
1661年に日本人が初めて千島列島に漂着した記録*4が残っています。
その後、領土拡大を狙うロシアも千島列島に関心を持ち始め、1711年以降、千島列島北部に順に上陸し征服していきました。
ロシアの南下
千島列島に進出したロシアは、アイヌから『税』としてラッコの毛皮などを徴収し、アイヌとロシア人の対立は繰り返されました。
また、ロシアは日本との交易を求めてきましたが、当時の日本は鎖国中のため、これを拒否しました。
江戸幕府はロシアの南下に危機感を感じており、千島列島の状況などを調査しました。
そして、千島と樺太とを含む蝦夷を幕府の直轄地として統治することにしました。
1800年以降は、東北から択捉島や国後島に日本人を送り込み、開発を進めていったのです。
武力衝突
鎖国状態の日本に対して、ロシアは引き続き交易を希望しますが、日本は受け入れませんでした。
ロシアは日本を動かすには武力脅威しかないと判断し、樺太や択捉島を攻撃しました。これに対抗し、江戸幕府はロシア船の打ち払いを命じました。
この後も、国境が明確でないままお互いのいざこざがしばらく続くのでした。
このままではいけない。これは両国とも同じ見解でした。
1813年 ついに両国間で国境についての交渉が始まりました。
日露和親条約
なかなか話し合いは進まず気づけば40年ほど過ぎました。。。
1855年 日露和親条約を結び、国境を決めました。国境は択捉島までが日本領、そこから北の千島列島はロシア領と決まりました。
これにより、今でいう”北方領土”の4島が正式に日本の領土になりました。
樺太については、厳密に決めず、日露混住の地域となりました。
また、この条約ではロシアの求めていた通り、複数の港を開きロシア船の補給を許可することになりました。
大日本帝国
国境を曖昧にした樺太では当然問題が起こり始めます。
ロシアが樺太開発に乗り出すと、日本も負けじと日本人を送り込み、日露の衝突が増していったのです。さらに、先住民のアイヌも加わり三つ巴の争いが繰り広げられました*5。
この頃、明治維新により、江戸幕府は解体され、大日本帝国に引き継がれていました。
1874年 日本政府はロシアとの間で、樺太・千島交換条約を結びました。
つまり、樺太をロシア領にする代わりに、択捉島から北の千島列島も日本の領土となり、つまり北方4島を含む千島列島全てが日本領になりました。
また、アイヌに対しては、日本かロシアかの国籍を選ぶように強要*6しました。
世界大戦
1905年 日露戦争に勝利した日本は、樺太の南半分を手にしました。
その後、ロシア革命によりソ連となり、世界は第一次世界大戦→第二次世界大戦へと進んでいました。
日本は米英との関係悪化となっており、ソ連側も米英とは相容れず、さらにはドイツが今にもソ連に侵攻してきそうなことがわかりました。
この2国が歩み寄り、お互いを5年間は侵攻しませんという日ソ中立条約 (1941年) を結びました。つまり、1946年までは有効な条約です!
ヤルタ会談
太平洋戦争で、なかなかしぶとい日本に手こずるアメリカは、早くからソ連に日本との戦争に加わるように声をかけていました。
しかし、日ソ中立侵条約を理由にソ連は拒否していました。
1945年2月に英米ソの間で秘密会談が行われました、ヤルタ会談です。
アメリカはソ連によい条件を提示しました。日本に勝利したら樺太や千島列島、そして満州の権益をソ連にあげるというものです。
1945年 5月 ドイツが無条件降伏すると、ソ連にとっては今までの脅威がいなくなり、日ソ中立条約はどうでもよくなります。
8月9日、ソ連は日本に宣戦布告し、日ソ中立条約を一方的に破棄しました。このとき、日本は既にズタボロ。ドサクサにまぎれて、樺太、千島列島、満州を占領したのでした。
ソ連の参戦により、日本は8月14日ポツダム宣言を受諾したのでした。
つまり、ソ連にとっては、1ミリも努力せずに最大の利益を得たわけです。
日本降伏後
ソ連は日本が降伏した後も侵攻を続けました。
そして、8月28日~9月5日 北方4島に上陸し占領し、以降、この”北方領土”はロシアが実効支配を続けているというのが現状です。
最終的な領土決定は1951年のサンフランシスコ講和条約で決まります。この時に、日本は『千島列島』を放棄することが決まりました。
問題は、この『千島列島』に北方4島が含まれるかどうかです。
日本としては、この北方4島は侵略によって手に入れたものではなく、過去に日露和親条約で公式に決められた日本領土であることから放棄する千島列島には含まれないと解釈しています。
この理論で行けば、1874年の樺太・千島交換条約も侵略ではなく条約で公式に認められたものなので、千島列島すべて日本の領土となるのですが・・・
また、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、放棄された領土を得る権利はありません。
さいごに
いかがでしたか?
北方領土問題の始まりは理解できたでしょうか?
ちなみに、戦後の協議の中で、ソ連側が態度を軟化し、1955年、歯舞・色丹を日本領とすることに同意しました。
しかし、日本政府は国後島と択捉島も日本領土であるという立場を崩さなかったため、この話は流れてしまいました。
何故日本が強気だったのかというと、アメリカが北方領土は日本のものだと考えていたからです。
当時は米ソ冷戦で、ソ連としては北方領土が日本のものであればそこに米軍が出てくる可能性が高く、受け入れられません。
アメリカとしても、北方領土が日本領であればソ連を牽制しやすいですね。
このように領土問題は2国だけの問題でなく、そのときの国際情勢に大きく影響されるのでした。
では、また(^.^)ノ
▼竹島は日本領であります▼
▼尖閣諸島は日本領▼
*1:https://www.hoppou.go.jp/archives/basics/islands1.html
*2:https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/digest/1_syou.html
*3:https://www.hoppou-d.or.jp/cms/cgi-bin/index.pl?page=contents&view_category_lang=1&view_category=1022
*4:http://www.mctv.ne.jp/~takase/E18.htm
*5:『ロシア史〈2〉18~19世紀』 田中陽児、倉持俊一、和田春樹編、山川出版社〈世界歴史大系〉1994年(平成6年) p254-255