『令和の米騒動』なんていう言葉が飛び交いました。
気候変動だ、減反政策だ、外国人需要だ、南海トラフ地震だ・・・
様々な要因はあるでしょう。
さて、今回は日本の米事情のウラ側を歴史から学んでいきましょう。”米”だけにアノ国が関係しています♪
寄生地主制
少し日本史の勉強からしましょう。
大昔は主に農業で生計を立てるわけですな。
まず力があるのは土地持ち、この人が”地主”です。
一方で土地を持っておらず、生産手段のない人たちを”小作人”という使用人として働かせて米を作らせていました。
そして、できた米や麦など農作物から”税金”と地代を合わせて高額な小作料を地主に上納するというシステムでした。
こうして、地主と小作人は絶対的な主従関係ができ、どんどん差が大きくなっていきました。
地租改正
昔から、税金のシステムはあり、江戸時代までは”物納”、つまり年貢米でした。
収穫高に応じて決められた量の米を俵に入れて納めていました。
しかし、その頃は、藩ごとに年貢がバラバラだったり、その年の天候により米の収穫量が違い、国の税収も不安定でした。
そこで明治政府は、いいことを思いつきました。
全国の土地を調査して統一した税率で、米でなくお金で租税を納めさせれば政府の税収は安定します。
これが、地租改正(1873)です。こうして地価の3%を貨幣で納税することになりました。
しかし、この3%があまりに高く、各地で反対一揆が起こり、その後2.5%に引き下げられました。
土地は個人の物
大化の改新(645)以降の律令制構築過程でできた考えに公地公民というものがあります。
つまり土地はそもそも天皇のもので、その使用を許可されているだけに過ぎないというものです。
社会主義の国ではその考え方ですね、中国なんかも『土地は国の物!』です。
日本ではずっとこの流れで来ていました。
ところが、明治時代の地租改正に際して、土地を調査し、地券を発行しました。これにより、個人での土地所有が認められることになったのです。
これにより、土地は個人の財産となったことで、その土地を担保にお金を借りたり、他の土地を買ったりができるようになりました。
こうして地主は力をさらに強めていきました。
明治政府も税収が安定し、そのお金が富国強兵に利用され、日本の近代化に寄与しました。
GHQの改革
太平洋戦争で敗れた日本は、GHQが統治し始めました。
2度とアメリカに喧嘩を売らない平和な国を作ろうと色々やりました。
戦争の経済的基盤となった財閥の解体、重化学工業産業の解体など、いわゆる日本弱体化政策を推し進めました。
また、日本の農地問題にも手を付けました。
地主と小作人の隷属関係を打破し、実際に小作をしていた小作人らに土地を分割し安く譲渡しました。
表向きの理由は農地の民主化、奴隷関係の撤廃ではありますが、ま、日本統治するうえで、地主は力が大きいので、後々ややこしくなりそうな奴らの芽を摘んだとも言えます。
▼3S政策(愚民化政策)とは▼
共産主義に対抗
小作人らのように立場が弱く、貧しい人たちに手を差し伸べるのは主に共産主義勢力です。ですので、小作人らは元々共産党支持が多かったのです。
ところが戦後の農地改革により、独立し自らの土地と言う財産を持つようになった旧・小作人らは、共産党から距離を置き、自民党支持に流れました。
これにより、日本政府(自民党)も政治をやりやすくなりますし、アメリカも自民党なら扱いやすいです。
アメリカとしては、ソ連との冷戦を予期していたので、地政学的に日本を『反共』にしておくことが重要でした。
農地改革はそのためのツールの1つ*1と考えれば理解しやすいです。
他にも、原子力発電や統一教会も、日本の反共ツールでしたね。
▼『被爆国に原発』なぜ?▼
▼統一教会は政治ツール▼
MSA協定
戦後の貧しい日本では、餓死者が続出していました。
米だけでなく、あらゆる食料が不足していました。アメリカから食料物資支援がありましたが、全然足りません。
しかも農地改革で小規模農家だらけになったので、生産効率は非常に悪いと・・・
さて、1954年に結ばれたMSA協定といものをご存じでしょうか。
これは、基本的には日米双方が軍事的支援をするというのが趣旨です。これにより、在日米軍の駐留と自衛隊が認められました。
▼自衛隊ができた理由▼
日本軍を解体したけど、朝鮮戦争で在日米軍が駆り出されるから、その代わりにできたのが自衛隊の最初です。
さらに、アメリカが自衛隊を置いた理由は、朝鮮戦争で兵器を大量に作り、終わったら余った兵器を自衛隊に使う(=日本に売れる)からです。
当時の日本は、貧しく、とりあえずアメリカから援助が欲しいので、話を進めました。
またMSA協定には農作物取引にも関連しています。
要は、アメリカで作って余った小麦を日本が買い取り消費するというものです。
食の欧米化
こうして、アメリカから買った小麦を用いたパンを主食にすることで食糧難の国民を助けようと日本政府は受け入れました。
欠食児童が多いので、まずは学校給食をご飯からパンに変えました。
パンに漬物や味噌汁は合わないので、それに合う肉のおかずや牛乳がつけられました。
となると、日本はそれらもアメリカから輸入することになりました。
こうして、日本人の食生活は一気に欧米化に向かい、昭和37年(1962年)以降、コメの消費量は減っていきました*2。
昭和40年代に入ると、肥料、農薬、農機の導入、品種改良により、米をたくさん作れるようになります。
ところが、国民の食の欧米化は定着しており、時すでに遅しでした。
▼アメリカのしたたかな戦略▼
減反政策
米は作れるようになったが、消費が増えず、米余剰の時代になってしまいました。
昭和45年(1970年)、政府は新規開田禁止などで生産調整を行うようになりました。
こうした政府による減反政策で、麦や豆などの別の穀類の生産に転作するように奨励金も出し、どんどんと米の生産を減らしていきました。
政府によるこの減反政策を強く推したのは、意外にもJA(農協)です。
減反政策の目的は、豊作貧乏をなくすことです。
生産量を減らすことで米の価格を高く維持するために”農家のために”行われました。
さて、JAはJAバンクという金融機関を持っています。厳密には銀行ではありません。ま、これは信用組合や信用金庫も同じです。
さて、農協に加盟した農家は金利優遇されるので、JAバンクをメインバンクにして預金します。
農家の7割ほどとも言われる兼業農家も会社からのお給料をJAバンクに預けます。
また減反政策で農業するのをやめ、土地を売った人たちもそのお金をJAバンクに預けます。
こうしてJAバンクは100兆円の預金を超え*3ており、メガバンクに匹敵する水準です。
要は減反政策がJAを発展させました。JAの支持政党は自民党です。うーむ。
まとめ
いかがでしたか?
戦後の農地改革で、寄生地主制が壊され、生産性の低い小規模農家が大量にできました。
これは、1つの反共政策でした。さらに、小規模農家らは自民党を支持するようになりました。
また、戦後、食糧難の中、アメリカの小麦作戦により”主食”米は一気に片隅に追いやられました。
米離れが進む中、技術革新で米をたくさん作れるようになり、余剰となりました。
豊作貧乏を何とかしようと、減反政策が推し進められ、結果として米の生産量はかなり減りました。はい、米不足の主因はこれです。
そして、色々あってJAは大きくなって、自民党を支持しています。
深いですな~
では、また(^^♪