友達が家族と神戸に来るらしく、
どこか観光スポットを教えてくれと言ってきました。
神戸の観光スポットとして思い浮かぶのは
南京町、異人館、モザイク、有馬温泉くらいでしょうか。
ところでこの異人館と言うものは歴史を紐解けばなかなか面白いものでなので
みなさんとシェアしたいと思います。
▼大阪のキタとミナミの歴史 はコチラ▼
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日本の開国
日本は江戸時代に200年以上にわたる鎖国を行っていたことはご承知の通り。
唯一、長崎の出島でだけ貿易などが許可されている状況でした。
当時、江戸幕府に入ってくる情報は、出島でオランダ商館から得たオランダ情報や貿易をしていた清からの情報、李氏朝鮮からの外交使節団である朝鮮通信使から得ていたとされます。
1853年 ペリーが浦賀にやってきます。このときはフィルモア大統領からの開国を求める国書を持参しました。
翌1854年ペリーは再度来日し、国書への返答を求めます。これにより日米和親条約を結び、箱館(=函館)と下田を開港しました。
その後 イギリス、ロシアとも同様の条約を結びました。
これがいわゆる【開国】となります。
日米和親条約のこぼれ話
ちなみに当時は ”日本國米利堅合衆國和親條約” と呼ばれました。この米利堅はメリケンと読みます。アメリカのことをメリケンと呼んでいたようですね~
これは American というのが日本人にはメリケンと聞こえたようです。
ちなみにアメリカから輸入された小麦粉はメリケン粉と呼ばれました。これは開国により貿易を開始したときにアメリカから小麦粉を輸入したのですが、当時日本ではまだ石臼を使って小麦粉を作っていたので、アメリカの小麦粉の白さに驚きました。
それで日本産の小麦粉と区別してメリケン粉と呼ばれたそうです。
関西では今でもメリケン粉と呼ぶ人がいます。笑
アメリカが開国を求めた背景
ところでなぜアメリカは日本に開国を強く求めたのでしょうか。
当時アジアでは清が力を持っており、アメリカは清と貿易をしていました。アメリカは太平洋経由で清を目指すわけですが、蒸気船の燃料をどこかで補給しなければなりませんでした。また船員の食料・水の補給も必要でした。
アメリカから清へ太平洋経由で行くときに最初に着く国は日本だったというわけです。
ちなみにアメリカから日本までは18日かかったそうです。長旅ですね。
※太平洋はなぜ「太」なのか
英語でPacific Oceanと言いますが、このpacificは peaceの形容詞なんです。
意味は「平和の」ですね。なので 太平 という言葉を使っています。
開国後に本格的な貿易を開始
1854年に日米和親条約を締結し小規模の交流が始まりました。アメリカは日本との自由貿易を目指し何度も交渉を行いました。
その結果1858年に日米修好通商条約の締結にこぎつけたわけです。
日本史で学んだ方は覚えているかもしれませんが、これは日本にとっての「不平等条約」でした。
この条約の簡単な内容は・・・
- これから日米は仲良く交流しましょうね
- 自由に貿易をしましょうね
- 日欧で問題が起きたら米国が仲介しますよ
- 神奈川、長崎、新潟、兵庫、江戸、大坂を開港
- 江戸と大坂以外の開港地では米国人居留もOK(→居留地)
- 米国人が罪を犯したら米国で裁判を受けるよ
- 居留米国人のキリスト教は認めてね、踏み絵もやめてね
- 軍艦や蒸気船や兵器は米国が売ってあげるよ
よく見たら今のアメリカ軍との関係もよく似てますね。
治外法権のことや、武器を買わされている点は(笑)
とりあえず、これに似た条約をイギリスやフランスとも結びました。これは安政五ヵ国条約と呼ばれます。
外国人居留地
安政五ヵ国条約で江戸と大坂以外の開港地に外国人の居留を認めることになりました。
その外国の商人たちが集まって住む区画を居留地として設定しました。彼らの行動は居留地から半径40kmに制限されていました。
その後50年弱、居留地制度は続きますが、条約改正に伴い順次撤廃されました。
横浜と神戸に限っては引き続き ”旧居留地” での貿易が盛んでした。
これが現在の港町 横浜&神戸 の名残なのですね・・・。
神戸外国人旧居留地のその後
1899年に神戸外国人居留地は日本に返還されました。これにより日本人が旧居留地に立ち入ることも可能となります。その後、銀行などがその土地に入り、ビジネス街に変貌を遂げました。
1945年6月に神戸大空襲があり、ほとんどが焼け落ちました。復興もなかなか進まず旧居留地は衰退していきました。
ところが1980年代になって、旧居留地に残された近代洋風建築が再評価され、それを利用したレストランや店舗が続々とできました。ビジネス街+ショッピング街として今に至ります。
オリエンタルホテルの歴史
1870年(より前?)に神戸外国人居留地に開業したホテル。最高級のホテルで食事も評判が高く、神戸ビーフを提供していたのが高い評価を得ていました。
こうして神戸ビーフは世界にその名をとどろかせました。
▼▼神戸ビーフについてはコチラ▼▼
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その後、ダイエーに買収され、ダイエー資本で姉妹ホテルが新神戸とメリケンパークに作られました。
因みにメリケンパークやメリケン波止場は近くにアメリカ領事館があったので「メリケン」という言葉がついています。
▼新神戸の韓国語表記についてはコチラ▼
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雑居地
実はここからがやっと本題(笑)
開国後外国人は上記の通り、外国人居留地に住んでいましたが、外国人の数が増えすぎて居留地だけでは事足りなくなりました。
そこで、居留地の外に「雑居地」といい、日本人も外国人も混じって住める地域を設定しました。
そしてこの雑居地が今「異人館」と呼ばれているわけです。
南京町
神戸港開港したとき、日本と清は条約を結んでいませんでした。そのため、清国人は居留地には住めず、雑居地に住んでいました。外国人居留地の西側の雑居地に中国人街(南京町)ができました。
※その後、1871年に日清修好条規を結び、清国人も居留地に住むことができました。
こちらも1945年の神戸大空襲で完全に焼失しました。そう、一度南京町は消え去ったのです。
ところが1980年代に南京町を復興させ観光地化しようという動きができます。もともとあった南京町よりも2倍近く広くなって現在の南京町となりました。
▼中華料理と中国料理の違いはコチラ▼
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まとめ
異人館も南京町も日本の開国時に形成されたものの名残。
どちらも再興の努力で現在の姿になっているんですね・・・