今から82年前の12月8日、日本海軍がハワイ・オアフ島の真珠湾にある米軍艦隊と基地に奇襲攻撃をしかけました。
大人になってみて改めて、背景も含めて学びなおそうと思います。
ハワイ王国
まず、地理的に見ていきましょう。
ハワイは太平洋の真ん中に位置しています。
つまり、太平洋を制するにはこの国を手に入れればいい・・というわけで、色んな国がちょっかいを出してきました。日本、中国、アメリカ・・・
1898年、アメリカはスペインとの戦争でフィリピン・マニラ湾でスペイン艦隊を沈めるなど大躍進しました。その成功の裏には、経由地にある補給地・ハワイの存在が欠かせませんでした。
この当時から、アメリカは真珠湾の独占使用権を持っていましたが、今後の戦争を見据え、ハワイ王国を倒し合併しました。
すでにハワイにはたくさんのアメリカ人が入植していたこともあり、アメリカへの合併がうまくいったのでしょう。
山本五十六
1920~1930年代、日本海軍もまた、開かれた太平洋に進出したがっていました。
そんな中、邪魔となるのはハワイから牽制しているアメリカ海軍です。
太平洋を挟んでにらみ合う、2国は、「いずれ戦うことになる」と両者とも準備をしていました。
海軍の中でも、冷静な判断をする人もおり、山本五十六という海軍大将はアメリカ海軍と日本海軍の国力差を考え、アメリカと戦うのは避けるべきと考えていました。
しかしながら、やむを得ない場合は、圧倒的な戦力差のあるアメリカ相手に戦うには、開戦と同時に一気にアメリカを壊滅状態にするしかないと考えていました。
ABCD包囲網
1937年 日中戦争が始まりました。アジアで拡大する日本をうっとうしく思っていたアメリカは中国側に武器を提供したりしました。
本来は米国内に”中立法”があるため、このようなことは禁じられていました。
とりあえず、日本がうっとうしかったのです(笑)
その間も日本はどんどんと進軍していきますが、大きな問題がありました。日本の石油は実はアメリカに大きく依存していたのです。
この石油を絶たれると・・・( ゚Д゚ ;;;;)
しかし、イケイケドンドンの当時の日本軍はフランス領のインドシナに進駐しました。
これでもうアメリカもブチギレ、「はい、日本、制裁します」
そして、その段階的な制裁にはイギリス、中国、オランダも協力し、いわゆるABCD包囲網が完成したのでした。
アメリカは日本への石油輸出を全面的に禁止しました。
イチかバチカ
石油を絶たれるということは・・・
そうです、もう長期戦はできません。いまやってる中国との戦いも戦況が変わり負けてしまう可能性が高まります。
日本はアメリカと交渉に入りますが、無理難題を押し付けられ、当然受け入れられず、破談。
追い詰められた日本は、アメリカと戦うしかないと判断し、山本五十六が考えていた短期決戦を行うこととしました。
アメリカが日本に攻撃するとすれば、本土からではなく、中間のハワイからです。
とりあえず、そのハワイにある真珠湾の米海軍を一気に壊滅させてしまえば勝機はあると考えました。
南方作戦
真珠湾攻撃は、単独の攻撃ではなく、南方作戦と呼ばれるものとセットでした。
アメリカからの禁輸で、石油が欲しい日本は石油の豊富なインドネシアにも手を出したかったのです。
真珠湾攻撃と同時に、南方作戦でマレー半島やインドネシアにも攻め入ることで、アメリカの援軍が東南アジアに来る前に侵略できるという作戦でした。
真珠湾への奇襲攻撃で、壊滅状態に追いやった日本は、南方作戦にも成功したわけです。
しかし、これらの国は元々、フランスやイギリスの植民地だったので、日本はイギリスらとも開戦することになったのです。
アメリカ参戦
当時のアメリカは、基本的には他国の戦争には干渉しないというモンロー主義を貫いていました。
しかし、日本軍の真珠湾への奇襲攻撃はアメリカ国民の意見を変えました。
特に、『宣戦布告なしでの攻撃は卑劣だ』ということが一番大きかったようです。
また、真珠湾の次はアメリカ本土に攻め入るかもしれないという恐怖が、アメリカ国民の参戦意欲を駆り立てました。
Remeber Pearl Harbor
このスローガンとともにアメリカは一気に日本を潰すことに力を入れました。
壊滅状態?
日本側は『壊滅状態』としましたが、実はそれほどではなかったとも言われています。
沈めた8隻の艦隊のうち6隻は引き揚げられ修理されたのです。つまり、アメリカが失った艦隊は実質2隻だけだったのです。
肝心の空母は4つとも、そのとき真珠湾におらず、無傷だったのです。
そして、もともとの作戦の中に補給設備への攻撃がなかったため、アメリカは燃料の大きな損失もしなかったのです。
これにより、アメリカ軍は急速に再建し、日本の想定していた”短期決戦”は無理になりました。
宣戦布告について
世界的なルールで戦争を始めるには必ず事前に宣戦布告が必要で、日本もアメリカもその取り決めに参加していました。
昭和天皇は、東条英機首相に対して、攻撃をする場合は必ず宣戦布告を行うように忠告をしていました。
日本の外務大臣から駐米大使に電報(帝国政府ノ対米通牒覚書)が送られました。
この文章は長く、14部に分けて送られました。13部までは前日に送られていましたが、ここまでには開戦の話は一切ありません。
そして、アメリカはこの13部までを事前に暗号解読していました。
駐米大使からアメリカの国務長官へこの覚書を渡す予定は現地時間12月7日午後1時でした。そしてそれがまさに真珠湾攻撃の時間でした。
しかし、実際国務長官に覚書が渡されたのは午後2時20分と、真珠湾攻撃から1時間20分も遅れたのです。
これゆえ『卑怯なだまし討ち』とされたのです。
なぜ遅れた?
一番最後の第14部は渡す予定時間の4時間前に暗号で送られたため文書化に時間がかかり遅れたのでは?という説があります。
第13部までは前日には届いていたのに最後の第14部だけギリギリに送ったのは、アメリカが暗号解読するのを承知して、わざとギリギリに送ったからでは?とも言われています。
そうしないと奇襲攻撃できないからです。
いずれにしても、こういった流れから、アメリカは事前に奇襲攻撃を知っていて、わざと被害を受けて、国民を日本との戦争ムードを作ったという陰謀説もあります。
しかし、重要なことは・・・
最後の第14部にも、『開戦』の話は一つもなく、アメリカとの交渉決裂とだけ書いてあるのでした。
つまり、日本は米国務長官に渡す覚書が攻撃より遅れただけでなく、実際、正式な宣戦布告していなかったということになります。
(諸説あります。)
最後に
いかがでしたか?
真珠湾攻撃についてさらっと学びなおしてみました。
基本的にこういう内容は最後に『諸説あります』で批判を交わすのが重要だなと思う今日この頃。笑
僕自身、愛国心は強いですし、日本が悪い国であったと思いたくないですが、客観的に見て当時はよろしくない国だったと思います。
では、また(^^♪