マルチリンガル医師のよもやま話

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キタとミナミの雰囲気は歴史から学べ

梅田はいつ行っても洗練された都市のイメージがする。

外国人観光客も多く、駅前の再開発で格の違いを感じさせてくれる。

 

一方、難波や心斎橋の方はどことなく”大阪” という雰囲気を醸し出している。

 

地下鉄でたった8分の距離なのにこれだけ違う雰囲気。

キタ と ミナミ について今日は学びましょう。

 

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キタ

キタというのは梅田・北新地周辺の繁華街を言います。

17世紀大坂城(現在の大阪城)の北側に堂島新地(福島)という歓楽街があり、

それを「キタの新地」としたのが由来とされています。

その後、18世紀に歓楽地は曾根崎新地(現在の北新地)に移りました。

 

梅田

梅田の名前の由来は 埋田 だそうです。

低湿地帯であり泥土を埋め立てて田畑を作ったからだと言われています。

その後は字面が悪いから梅田に変わったそうです。

1906年に阪神電車が1910年に阪急電車が梅田駅を開業すると

梅田は一気に広域地名になりました。

 

阪神・阪急・JRのライバル史はコチラ

multilingual-doctor.hatenablog.com

 

 

北新地

1685年に堂島新地が開拓され歓楽街となりました。

当時は豪商の淀屋氏の家の前にある淀屋橋付近で米市が行なわれていました。

その後、この米市を堂島新地で行なうこととなったそうです。

 

すると堂島新地の代りになる歓楽街が必要となりました。

曾根崎側の北岸で新地開発をし、1708年に曾根崎新地ができました。

これに伴い、堂島新地は商業中心となり、遊郭は曾根崎新地に移りました

これが現在のキタの新地、北新地になりました。

 

中之島や堂島には蔵屋敷とよばれる年貢米や特産物を置いておく倉庫がありました。

そのため、北新地は諸藩の武家の来客が多いことも当時からの特徴でした。

現在の北新地に高級店が多いのもそれの名残なのかもしれません。

 

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ミナミ

ミナミとは難波を中心にした繁華街のことです。

道頓堀、難波、千日前などが含まれます。

江戸時代の大阪の中心業務地区であった船場(せんば)の南に位置することなどから

「ミナミ」と呼ばれるようになったそうです。

 

道頓堀

この川を作るのに多大な尽力をした安井道頓の功績を讃える意味で名付けられました。

 

千日前・難波

幕府と豊臣軍が戦った大坂の陣の後

1605年に千日墓地が作られました。刑場や火葬場も併設されました。

その後 茶屋や見世物小屋が集まり賑わい、南地五花街(後述)にも含まれます。

のちに刑場は廃止となり、墓地も移転しました。

1885年 阪堺鉄道(南海電鉄)が難波駅を開業し活気づきました。

 

南地五花街(なんちごかがい)

江戸時代 道頓堀川の南に芝居小屋ができるとその周囲に次々に茶屋ができました。

これらを花街といい、難波新地を初め5つを合わせて南地五花街と呼ばれました。

この周囲に不認可の遊郭が多数できました。

明治に入り、南地の花街は正式な遊郭に認められます。

 

しかし、明治45年 南の大火により消失し、遊郭として機能しなくなりました

その代替地として飛田遊郭が建設されました。

 

まとめ

キタでは蔵屋敷があったため昔から武家の来客などが多かった。

一方、ミナミは遊郭や茶屋が多数有り、庶民の娯楽の場として発展した。

歴史的背景の違いによりキタとミナミは全く雰囲気の違う街になった。