歴史ってTVとかで見るとめちゃくちゃ面白いですよね~
でもなぜか勉強すると全然ダメで、センター試験日本史なんて30点台でした(笑)
たまに特集がある中で好きな話は「聖徳太子は実在しない?」説などです。あれは個人的に一時期ハマりました。
今回は聖徳太子の様々な説についてご紹介したいと思います。
習った聖徳太子
馬小屋の前で生まれたため厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれました。なお、聖徳太子と言うのは後の世でつけられた名前です。
さて、当時(6世紀後半)飛鳥時代の日本では仏教を受け入れるかどうかで大きくもめていた時代でした。
蘇我馬子は仏教を受け入れようとし、軍事氏族の物部氏は仏教反対の立場をとっていました。厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我家と血縁関係にあり、仏教容認の立場でした。そのため蘇我馬子たちに加勢し物部氏討伐に成功しました。
その後、女性初の天皇・推古天皇が即位し、その親戚にあたる蘇我馬子と厩戸皇子が推古天皇の補佐をしました。
上記が一般に聖徳太子の主な業績と言われるものです。なかでも、冠位十二階では血縁にとらわれず才能のあるものを登用するというもので、位を明記することで上下関係をはっきりさせる意味合いもありました。
翌年の十七条の憲法で豪族たちに臣下としての心構えを説き、仏教を尊び、天皇を中心とした中央集権国家の形成に尽力しました。
また豊聡耳(とよとみみ)というあだ名もありました。これは聖徳太子が10人の依頼を同時に聞いたときに一言一句漏らさずに聞き取っていたことからこう呼ばれました。
聖徳太子と縁ある寺院
大阪の天王寺にある四天王寺は物部氏討伐(上述)の成功を祈願し成就したため建てられた寺院です。
奈良にある法隆寺は先代の用明天皇が自分の病気治癒祈願に作り始めましたが、志半ばで亡くなったためその後を引き継いで建立しました。
兵庫県の太子町といういかにもな地名にある斑鳩寺は、聖徳太子が推古天皇に仏教の経典を講義したお礼に、兵庫県揖保郡の土地をもらい、そこに法隆寺の分院として斑鳩寺を建立したそうです。
さて、ここからが今回の本題です。聖徳太子の存在に関しては様々な説があります。ここからはその主なものをご紹介します。
厩戸皇子≠聖徳太子 説
聖徳太子と厩戸皇子は別人で、本物の聖徳太子は蘇我馬子の息子・蘇我善徳だったという説です。これ下の図を見ながら話を進めましょう。
蘇我馬子の息子・蘇我善徳は最終的に645年大化の改新のときクーデターで中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺されてしまい、蘇我家は没落しました。しかし、聖徳太子の伝説を話す中で、暗殺されてしまうのはさすがにマズいので、この暗殺された人物を後に蘇我入鹿(そがのいるか)という架空の人物を作り上げたという説です。
つまり、蘇我馬子Jr. = 聖徳太子 = 蘇我入鹿 というややこしすぎる構図ですね。
聖徳太子は存在しない説
聖徳太子の存在が初めて言及されるのは720年に完成した日本書紀です。この作成に携わったのは藤原不比等(ふじわらのふひと)らです。聖徳太子は藤原不比等らの創作ではないかという説です。
上の図を見ながらおさらいです。中大兄皇子と中臣鎌足はクーデターで蘇我入鹿を暗殺し蘇我家を滅亡させました。そして中大兄皇子が即位し天智天皇になり、中臣鎌足には藤原の姓を与えました。その藤原鎌足の息子が藤原不比等です。
日本書紀を編纂する中で、暗殺してクーデターで皇位継承したというのは藤原家的にビミョーなので、蘇我家が悪い奴らだったから成敗したというストーリーにしたかったのかもしれません。
その不比等のストーリーとしては・・・
といったところでしょうか。
聖徳太子はトルコ人?説
他にも聖徳太子はトルコ(突厥)から王が流れてきたという説も聞いたことがあります。それはたしか、この記事の1つ目の写真を見てもらうと、横の二人も成人とすると聖徳太子が背が高すぎることに気づくはずです。当時の成人男性の平均身長は160cmだそうで、聖徳太子は180cmほどあったとされています。
また、病気療養のために道後温泉などの温泉によく行ったとする聖徳太子ですが、トルコも温泉のある国で、昔から療養目的に温泉に入る文化があったとか?
そんなこんなでこの説ができたと聞いた覚えがあります。
まとめ
聖徳太子はいたのかいなかったのか?
これだけ有名な歴史上の人物がいなかったとなればかなりの衝撃ですね。
もちろんご紹介した説には反論などもたくさんあります。
あくまで、楽しむ目的で読んでくださいね。