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琉球と沖縄~首里城が見た歴史~

昨年12月に沖縄に行きました。遅めの夏休みです。

ご存じの通り、そのちょっと前の10月末に首里城で火災が起こりました。

 

人生初の沖縄だったので、首里城は当然訪問予定に入っていました。

いつもは歴史的建造物へ行くときは少し下調べしをてから行くようにしています。

今回は首里城を元に沖縄の近代史についてわかりやすくまとめてみます。

 

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琉球の歴史と城(グスク)

14世紀に琉球は南山(なんざん)・中山(ちゅうざん)・北山(ほくざん)の3つの国がありました(三山時代)。これらの領地は現在の沖縄の南部・中部・北部と概ね一致しています。当時の名残といえるでしょう。

さて、三山時代それぞれの国王はグスク*1を持っていました。その後100年ほどこの時代が続き、15世紀に琉球は統一されます。このとき琉球国王となったのは中山の王であった尚巴志(しょうはし)です。

それ以降、元々中山王の住んでいた首里城(スイグスク)が琉球王国の首府として栄えることとなりました。この首里城はその後、第二次世界大戦までに3度火災で焼失しているのです。

 

琉球と沖縄

やはり、言語マンとしてはこの分野に触れずして勉強はできませんので。(笑)

琉球という言葉は古くは7世紀の隋の書物では「流求國」という表記が見られいてます。勝手な推測ですが中国から流れ着いたところくらいの意味でしょうか。笑

それ以降も、昔の中国(隋~明)の時代に使われてきたいわばあだ名のようです。歴代の琉球王は自らの国を琉球と名乗ったことは歴史上ありません。

明の時代(14世紀以降)に流求の名前は琉球へと変わっています。これは琉球が冊封体制といって、「中国様、私はあなたを天として仕えます。どうか私がこの小さな島の王となることを認めてください」というシステムだったため、「王」偏の漢字に変えたのではないかと考えられています。

 

一方、おきなわという言葉は8世紀の書物で「阿児奈波(あこなは)」というものが確認されております。つまりこちらが正式な国名であったとする学者もいます。その後、あこなは→おきなは→おきなわになったと言われ、沖縄というのは当て字のようです。

考えてみれば「うちな~」というのも「おきなわ」と音が似てますね。

 

琉球処分

さて、中国への冊封体制を続けていた琉球王国はアジア間の中継貿易で栄えました。たとえば、明に貢ぎ物をして見返りにたくさんの明の品をもらい、それを日本や他のアジアの国に売って利益を上げていました。

そこに目をつけたのが薩摩藩でした。1609年に薩摩藩は江戸幕府の徳川家康に許可をもらい琉球に攻め入り征服しました。薩摩藩は琉球王国の明への冊封体制をやめさせませんでした。なぜなら琉球が朝貢して明から品物をもらってこそ初めて貿易での利益を得られるからです。

こうして、琉球王国は明(及び清)と薩摩藩と両方に仕える宙ぶらりんな状態となったわけです。しかし、幕末になってくると西欧列強国が日本や琉球に開国を迫ってきました。いわゆる黒船来航です。

 

日本開国の歴史はコチラ

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 さて、開国しアメリカや列強国と条約を結ぶに当たり、日本としては自分の国の領地がどこまでなのかということをはっきりとしておく必要がありました。そこで問題となったのが琉球王国です。日本は琉球も日本の領土と規定し、1872年に琉球藩となりました。

その後も琉球は日本の反対を無視し清と貿易を続けますが、いよいよ1879年に琉球国王は東京に連行され、琉球王国は滅亡し、沖縄県となりました(琉球処分)。これとともに首里城は王居ではなくなり荒廃していきました。

 

琉球処分~日清戦争

さて、これに怒ったのは清でした。いままで自分のところに仕えていた属国を日本が勝手に自国にしたからです。

さらに、この問題以前から、実は日本と清は朝鮮半島の利権をかけていがみ合ってきました。李氏朝鮮も同じく清への朝貢を行なっていました。

そんなこんなで1894年に日清戦争が勃発したわけですね。

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ビゴーの描いた日清戦争

20世紀の首里城

さて、琉球処分で一度は姿を消した首里城はその後どうなったのでしょうか。

1925年に首里城に沖縄神社が作られました。首里城の正殿は改修を受けつつ神社にそのまま使われました。

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首里城正殿

しかし太平洋戦争で首里城は焼失し(4度目)、周囲の琉球王国時代の文化財なども破壊されました。戦後は1950年に首里城跡地に琉球大学が建てられました。

人々は首里城の再建を願い、少しずつ建物が再建されていき、1979年に琉球大学が移転したときに本格的な復元が始まりました。そしてついに1992年に首里城は復元され、2000年に世界遺産に登録されました。

 

そして2019年10月31日未明に首里城で史上5度目の火災が発生しました。火災の原因は特定されていませんが、正殿1階の分電盤などでショートした後などが見られており、火災の原因となった可能性が指摘されています。

 

まとめ

昔、琉球は3つの国があったが、中山が琉球を統一し、首里城を首府とした。

琉球王国は明・清への朝貢を行い、中継貿易で栄えた。

薩摩藩は貿易での利益目的に琉球を討伐し日本に組み込んだ。

怒った清との間でのちに日清戦争が勃発した。

太平洋戦争で首里城は焼失するも島民の悲願で復元に成功した。

2019年首里城史上5度目の火災で再び焼失してしまった。

*1:琉球方言で城