インフレが続くなか、日本人の給与は上がっていないっていう話はそこら中で言われています。
国民の”所得”を増やすには、自然の流れに任しておくだけでは難しく、政策が重要となります。
今回は、日本を経済大国へと導いた1960年頃の”所得倍増計画”を振り返ってみましょう。
池田勇人
まずは主人公の確認です。池田勇人は1899年、広島県で7人兄弟の末っ子として生まれました。
京大法学部を卒業後、大蔵省へ入るも、当時は東大卒が出世コースを牛耳っていたので、なかなか日の目を浴びず。さらには皮膚の難病を患い、長期休職を余儀なくされました。
奇跡的な回復で復職後、色々あって政治家になることを決意します。
すると、新人ながら、第3次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢され、そこからどんどんと頭角を現していきました。
所得”倍増”
戦後の日本を豊かにするために、大蔵省出身で経済に詳しい池田は色々と考えました。
その中で、読売新聞の朝刊の見出しで『賃金2倍』というものが池田の心を捉えました。国民にわかりやすく「経済成長」を印象づけるからです。
そして、理論や実現性は横においておき、「日本人の所得を(10年以内に)2倍にする」と決めました。
当時の民間経済界の間では、日本経済は、戦後の復興段階を終えて、今後鈍化するという見方が根強かったものの、「所得倍増」という言葉は国民の心を捉えました。
年率9%成長
1960年、ついに内閣総理大臣となった池田は、経済成長年率9%は可能だと述べました。
仮にこの成長率を達成し続けたとしても、急速な賃上げは必ずインフレが起こるので、実質的に豊かになるとは言えないと考えられ、多くの評論家は所得倍増論を切り捨てました。
実際、急激な賃金上昇が起こると、当然モノの値段も上がりインフレとなります。
さらに、累進課税により所得税も急に増え、実際それほど豊かにならないというブラケットクリープ現象が起こり、人々は消費控えに走り成長は鈍化してしまいます。
経済をよく知る、池田は物価調整減税を行い*1、物価上昇に応じてその分控除を増やした”減税”で乗り切りました。
太平洋ベルト
さて、ここからは、所得倍増計画の細かいところを見ていきましょう。
戦後の復興では、米作りの為の用水路やダムなどの日常生活レベルのインフラに力が入れられていました。
60年代からは工業のインフラを整備し、経済発展を目指す下地を作ることにしました。
東京・名古屋・大阪・博多をつなぐ太平洋ベルト地帯に工業地帯を形成することを閣議決定しました。
太平洋ベルトの成功には重要な要素があり、原材料が海外から船舶で日本に入ってくるため、太平洋側の沿岸部というのが効率よかったのです。
たとえば鉄鋼業では安い原料を入手し、沿岸部なので輸送のコストも抑えられたことで、アメリカの鉄鋼業に対抗できたのです。
こうして、仕事のある太平洋側へ人口が集中していきました。
農家の所得up
また同時に、農業、漁業、林業、中小企業の法整備も進めたのですが、例えば、農家は収入が低かったので農家所得を上げるために、農業の近代化で手間を減らし、専業農家を減らして、兼業農家を増やしたのです。
兼業農家はよそから給料ももらうので、兼業農家が増えると農家全体の所得もupします。
▼米不足の背景▼
公共事業と減税
経済を発展させるのに物流・人流の円滑化は避けられません。
というわけで、道路整備に多額の予算をつぎ込みました。
このような公共事業ではたくさんの労働が作られるので、景気刺激策として利用されます。公共事業をどんどんするために、『〇〇公団』というものがどんどん作られました。
また、民間企業も成長するためには借金をしてビジネスを大きくする必要があるので、政策金利を引き下げて、お金を借りやすくし、減税も積極的に行いました。
そしてスピード感も重要と考え、『2年後に貿易自由化』とし、海外勢が入り込む前に投資して大きくなりなさい!と企業のお尻を叩いたのです。
こうして、企業は設備投資し、雇用を増やし、海外勢に負けぬよう多大な努力をした結果、時計やカメラや自動車の技術革新も進み made in Japan 製品がどんどん輸出されるようになりました。
社会保険の安定化
そして、今では当たり前の国民皆保険と国民年金ですが、これらは1961年に始まりました。
社会保険料をみんなで負担して、医療費をカバーしあうというこの制度で、国民は高額な医療費支払いがなくなり、受診のハードルが下がりました。
この制度が世界的に見ても日本人の健康を底上げしたことは疑う余地はありません。
すると、『客』である患者が急増すると、医療業界・製薬業界は大きくなります。
医療従事者の需要も増え、医師、看護師だけでなくさまざまな職種が増えていき、雇用を増やしていくことにつながりました。
また、年金も『所得』になりますから所得押し上げてますね。所得倍増へまた一歩。
東京オリンピック
1964年には東京オリンピックという舞台が決まっていました。
これに向けて大規模なインフラ整備という公共事業ができました。しかも、「戦後の復興の象徴」となれば、国民の反発も多くないでしょう。
オリンピックの大義名分で、新幹線と高速道路整備に予算をつぎ込みました。
また、工業地域では、出稼ぎ労働者らが住むために大規模な集合住宅を開発したりと、いわゆる『〇〇ニュータウン』というのもこのころから増えていくようになりました
しかし、実はそれだけではありません。
日本は戦争に敗れ、軍隊を持てなくなりました。
1960年に締結された日米安保条約により、軍事・防衛に莫大なお金を使わずに国を守れるため、その余裕資金を経済活性に回せるという他国にはないメリットが生じたのです。
日米安保条約は間違いなく経済発展に寄与したのです。
このような様々な政策を合わせて所得倍増計画は成功したのでした。
計画の裏側
ここまでは、所得倍増計画の光の部分を見ましたが、実は影もあります。
当然、このような短期間で賃金上昇が起こると、大きなインフレが起きます。
また、太平洋側一極集中で、出稼ぎ労働者が田舎を離れたことで地方の過疎化も進みました。
どんどんと山を削って、宅地開発を進め森林破壊という問題も表面化しました。
また、実はそもそもこんな倍増計画がなくとも、自然と所得は倍増していたという見方もできます。
実は、1960年の時点で、経済成長率は10%以上あったんですね。
で、10年で所得倍増するのに必要なのは年9%の成長を続けることでした。
戦争やコロナ禍のようなよっぽどのことが起こらない限りは、極端に経済成長率の低下は起こりにくいと考えられ、実は当時、放っておいても『所得倍増』達成したのだろうという見方*2もあります。
となると、所得倍増計画の真の目的は何だったのか?
農家の所得が増えるようにしたり、医療関係が儲かるようにしたり、自動車産業の発展に寄与したり・・・
この分野の組合や連盟が自民党の支持団体という事実と合わせると・・・
ほう、政治基盤の強化が目的だった。。。
信じるか信じないかは・・・笑
いずれにしても、当時は、社会インフラの整備、社会保険の確立など様々な下地を短期間で行われたこともあり、所得倍増は達成しました。
現代ではとてもまねできないということですね。
では、また(^^♪