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5分で振り返る二・二六事件 ~近代史シリーズ2~

満州事変(前編)はコチラ▼ 

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前回までのあらすじ

清が滅びた後の、清での権益をかけて西洋諸国やロシア、日本が清へ進出しました。清国内でも次の覇権をかけて内戦が続いていました。

そんな中、日本は満州と呼ばれる朝鮮半島の北側の地域を手に入れるためにあれこれと手をうちました。自ら列車を爆発させ、それを理由に満州を乗っ取ったのです。

当時中国では反日感情が高まりつつあったので、関東軍は清王朝の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を国王とし「満州国」という傀儡国家を作ったのでした。

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犬養内閣の誕生

1932年に関東軍が満州国を建国すると、若槻内閣は「関東軍の暴走」を止められず総辞職しました。そして次にできたのが犬養内閣です。

軍部は犬養総理に「満州国」の承認を求めましたが、これを拒否しました。しかし、軍部の反発を招き、しぶしぶ受け入れることとなりました。

こうして、次第にパワーバランス的に【軍部>内閣】となっていったのです。

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犬養 毅

五・一五事件

まず、言っておきたいのは犬養総理と軍部は比較的関係は良好でした。それ以前の内閣への不満が軍部で高まりつつあり、前総理の若槻禮次郎のときに軍部は総理の暗殺を計画しました。しかし、若槻内閣は1年も持たずに総辞職し、犬養内閣になりました。そして、犬養総理は暗殺の対象となってしまったのです。

1932年5月15日 青年将校たちは総理官邸へ忍び込み、犬養を襲いました。

「話せばわかる!」

この名言とともに犬養総理は襲撃犯たちを応接間へ招き入れ話を始めた。しかし、また別の襲撃員がそこに入って来て犬養総理の頭部を撃ちました。

この青年将校たちは軍法会議に掛けられましたが、死刑とならずかなり軽い刑で済みました。多くの嘆願書と「11本の指」が送られてきたからです。

11本の指については興味がある方のみ調べてください。

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五・一五事件

日本国内で続くテロ

1929年の世界恐慌の影響は日本へも伝わり昭和恐慌と言って日本は輸出が伸びないなどして経済的にかなり深刻な状態となりました。「欠食児童」「身売り」が社会問題となっていました。

こんな苦しい時代で、政治家や財界の人間を排除しようという過激な思想が出始め、テロや暗殺が相次ぎました。五・一五事件もその一つでした。五・一五事件の主犯者たちは死刑にならず軽い刑で済んだことも後の日本国内での暗殺・テロ行為に拍車をかけました。

その後は、軍の力で天皇を中心とした国づくりをめざす”皇道派”とよばれる活動家たちが力を持ち始めました。

 

昭和維新と二・二六事件

困窮する生活と高まる不満の中、明治維新のように天皇中心の政治に戻すために皇道派たちは「昭和維新」を掲げました。1936年2月26日、皇道派青年将校たちは1500人の軍人を引き連れ、首相官邸や陸軍省や警視庁などを取り囲み、大蔵大臣の高橋是清らが殺害されました。

 しかし、これには昭和天皇が激怒され、即時鎮圧するようにと命が出ました。そして、陸軍と海軍が鎮圧を行い、集まった部隊は解散となりました。

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二・二六事件の後

二・二六事件は【天皇中心】を叫ぶ皇道派将校たちによるクーデター未遂でした。事件の後は、要職から”皇道派”は排除され、敵対する”統制派”と呼ばれる人たちが軍の実権を握ることになりました。

この”統制派”は、総力戦(軍人だけでなく、一国民も軍事に携わるべき)という考えを持つ集団でした。

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皇道派と統制派

その後、この統制派が権力をもち、軍は表立って政治干渉を行うようになります。そして軍部独裁への道をたどったのでした。

 

盧溝橋事件

満州事変後も中国内では内戦(国民党 vs 共産党)が続いていました。

一方、日本では軍が力を強め、また中国への進出をもくろみました。

1937年7月7日、日本陸軍支那駐屯軍は北京近郊にある盧溝橋で夜間軍事演習を行っていました。そのとき、近くに来ていた中国軍(国民党?)が実弾を何発も発砲したのです。これを機に日本軍と中国軍での小競り合いが始まりました。

翌日の7月8日に中国・共産党は宣伝を広く行い「抗日義勇軍」を呼びかけました。

さて、ここで問題となるのは最初に日本軍へ実弾を打ち込んだのは誰かと言う話ですが、実はこれには諸説あります。いまも真相は分かっていません。

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盧溝橋事件の諸説

日中戦争と国共合作

盧溝橋事件は5日目に一度停戦しますが、中国側は内戦中でもあり、停戦の情報がうまく伝達できなかったことなどから停戦協定が守られませんでした。そして、日本は日本兵を増員しました。その後の、日中戦争が起こります。

中国では、内戦でもめていた蔣介石(国民党)と毛沢東(共産党)が結託し日本と戦うこととなりました国共合作)。

 

戦後の中国と台湾

さて、仲の悪かった国民党と共産党は「抗日」のために結託しました。実際は、蒋介石は拉致されて手を結ぶことになったのですが・・・

日中戦争が終結(=1945年  太平洋戦争の終結)した後に国内では再び国民党と共産党の対決が始まりました。勝利したのはなんと毛沢東が率いる共産党でした。そして、毛沢東は中華人民共和国を作りました。これが今の中国です。

敗北した蔣介石率いる国民党は台湾へ逃げ、国を作りました。

 

まとめ

満州事変の後、日本では五・一五事件二・二六事件と言ったクーデーター未遂が行われるようになりました。

それとともに軍部の力が増大し、やがて国民全員が兵士となって太平洋戦争に突入しました。よく振り返ってみると、昭和恐慌による困窮や政府への不満により起こった事件が日本を太平洋戦争に突き動かしたのかもしれません。

また、中国では共産党は実にうまく、やり抜きましたね。ともに「抗日」でまとまるも戦争終了後には、最初は負けていた国民党に打ち勝ち、現在の中華人民共和国を作ったのです。

やはり近代史を学ぶと色々と見えてきて楽しいですね。