今回はコロナ禍に起こったクーデターについて少し学んでみましょう。 ミャンマーとはいったいどういう国だったのでしょうか・過去を知ると『現在』が見えてきます。
ミャンマーとビルマ
ミャンマー、過去はビルマと呼ばれていました。ミャンマー国内では、文語でMyanmar、口語でBurma*1と使い分けているそうです。後者がビルマの所以ですね。
日本では外務省が、「ミャンマーと呼ぶ」と決めたことで、いまは、ミャンマーが正式な国名としています。しかしメディアによって多少違います。
アメリカではMyanmarを使うCNNやNew York Timesもあれば、一方で Burma を使用する Washington Post や VOA など分かれます。この理由は後で出てきますが政治的なものです。
ミャンマーのザックリ歴史
ミャンマーに住む7割の人たちはチベット系のビルマ族という民族です。その他に多数の少数民族がいます。また、ミャンマーでは9割の人が仏教徒です。少数民族の中にはイスラム教徒などがいます。
さて、ミャンマーの最初の王朝であるパガン王朝ができたのは11世紀になってからです。その後300年ほど続いてパガン王朝は滅びました。
その後、いくつもの王朝ができては滅びを繰り返しました。そして1754年にコンバウン王朝によりビルマが統一されました。いわゆる”最後の王朝”です。
英国との戦争と植民地化
19世紀に入り、3度にわたる英国との戦争がありました。これを英緬*2戦争といいます。なぜこんなところに英国?というと、ビルマの西側にインドがありますね。インドは当時英国の植民地だったからです。
第3次英緬戦争でコンバウン王朝は滅亡し、ビルマは英国領インドの一部に吸収されました。
その後、第一次世界大戦 (1914年~) の間に独立運動が始まり、長年かけて1937年にようやくインドから独立します。しかし、インドからは独立しても英国領であることは変わりませんでした。
1941年の太平洋戦争時、タイは周辺で唯一の独立国であり、日本の友好国でした。タイの周囲には英・仏・蘭・米の列強が囲んでおり、日本軍にとってはタイは重要な位置だったのです。
そこで日本軍は南方作戦でとしてタイへ、その後、ビルマへと進撃しました。これをビルマの戦いと言います。
建国の父:アウンサン
ビルマの戦いで日本軍に合流し、一緒に英国と戦ったのが、アウンサン率いるビルマ独立義勇軍です。その後、1942年に英国軍を退け、1943年にビルマ国*3ができました。
しかし、1945年日本の敗戦が濃厚になると、アウンサンが率いる軍がクーデターを起こし、日本から英国に寝返りました。日本軍には勝ったものの、英国は独立を認めず再び英国領となってしまったのです。
その後も、独立に向けて尽力しますが、1947年 アウンサンは暗殺されてしまいました。彼はビルマ独立の為に尽力し『建国の父』と親しまれています。
そして、彼の亡くなった翌1948年、ついにビルマ連邦として独立しました。
クーデターと軍事政権
独立後も国内での争いは続きました。経済政策の混乱や少数民族問題で国は大きく揺れていました。1962年にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、大統領となりました。
ネ・ウィン率いる軍事独裁体制は、ビルマ式社会主義を掲げ、鎖国に近い外交政策を行い、経済はどんどん疲弊していきました。気づけば、1987年に『最貧国』に認定されるレベルにまでなりました。
黙っていられなくなった国民が立ち上がり民主化運動が始まりまったのです。これを8888民主化運動と呼びます。
アウンサン・スー・チー
建国の父・アウンサンの長女であるアウンサン・スー・チーは民主化運動を掲げ、国民民主連盟を結成しました。しかし、これをよく思わない軍部は1989年から彼女を自宅軟禁しました。翌年に控えた選挙で民主派勢力に勝たせたくないからです。(※以降、総選挙は5年毎に下1桁が0か5の年に行われる)
そして、間もなく軍部は国名をミャンマー連邦に改称しました。これ以降、世界中でミャンマーと呼ばれるようになりますが、軍事政権を認めないという立場の人たちやメディアはビルマという名称を使います。
1990年 選挙で民主派勢力が圧勝しましたが、軍部は結果を受け入れませんでした。そして、逆に民主化勢力への弾圧を強化します。当時は5人以上の集まりを禁止にするという『コロナ禍か!』とツッコミたくなるような非常事態を敷いていました。
スー・チーの民主化運動を危険視した軍は長期にわたり、彼女の軟禁と開放を繰り返しました。この動きは欧米など国際社会から大きな批判を受けました。(現在の香港の状況に近いですね。)
念願の民主化
時は流れ2008年、新憲法案への国民投票が可決され、ようやく民主化へ動き出したミャンマーでした。
2010年11月に新憲法下で初めての総選挙が実施され、選挙後にスー・チーの軟禁も解除されました。
しかし、そう簡単に軍もあきらめるわけもなく、民主化はする代わりに、連邦議会の1/4の議席をあらかじめ国軍に割り当てるようにしたり、力のある省庁を支配するなど引き続き大きな影響力を持っていました。
2015年11月 スー・チー率いる国民民主連盟が総選挙で圧勝しました。これによりアウンサン・スー・チー大統領が誕生となるはずでしたが軍の猛反対に合い、スー・チーの側近が大統領になることで話がまとまりました。
これにて54年続いた軍人による統治が終わった(はずだった)。
2021年のクーデター
民主化から5年経った2020年11月総選挙で、またスー・チー率いる国民民主連盟が圧勝しました。実はこのとき、国民民主連盟は選挙で苦戦が予想されていたのです。
その理由が、ロヒンギャ虐殺問題です。ミャンマーは少数民族がたくさんあり、武力衝突が続いているのです。そんな中、ミャンマー国軍によるロヒンギャというイスラム教の部族の虐殺が2016年頃から世界中で問題となっていたのです。
ミャンマー政府はロヒンギャはバングラデシュからの不法移民という考えをしていますので選挙権も与えていません。
大敗を喫した軍部とその政党は、これらを理由に『不正選挙が行われた』と主張し、2021年2月1日にクーデターを起こしました。スー・チーらはまた軟禁されてしまったのです。
中国が関与?
今回のクーデターをこっそり喜んでいる国がいます。中国です。共産党率いる中国からしてはスー・チーらの民主化運動は目の上のたんこぶでした。
ミャンマー国軍は中国と繋がっており、武器等の調達は中国からの”協力”を得ていたからです。
しかし、なぜ中国はミャンマーを手なずけたいのでしょうか?
これはエネルギー資源の調達が容易になるからだと言われています。軍事政権時代から中国はミャンマー西部から中国へ天然ガスを輸送するパイプラインの建設を始めていたのです。つまりミャンマーの天然資源が欲しい!
そして、中東から買う原油などもいまは狭いマラッカ海峡を通っているのですが、ミャンマーを抑えればそこを通らなくていいからです。というのも、アメリカが中国をけん制するためにマラッカ海峡を封じる可能性もあるからです。
まとめ
いかがでしたか。
ミャンマーは戦後独立を果たしましたが半世紀以上にわたる軍事独裁政権のもと最貧国にまでなってしまいました。2015年にようやく軍事政権が終わった中、今回のクーデターで再び過去に戻ってしまう恐れがあります。
さらにはミャンマー国軍の裏には中国のしたたかな戦略も見え隠れします。コロナ禍で世界の注意が緩んでいる今というのが最大限利用されているのです。
では、また(^^♪