マルチリンガル医師のよもやま話

マルチリンガル医師の世界観で世の中の出来事を綴ります

MENU

5分で振り返る満州事変 ~近代史シリーズ1~

外国人と話していていつも思うのが日本人は近代史を知らなすぎる点です。もちろん太古の時代を学ぶことも重要ですが、近代での出来事から学び、時には反省し、改善する。これが歴史を学ぶ意味だと思います。

今回は「満州事変」です。2回に分けて満州事変とその後について学んでいきましょう。

 

f:id:jonny1205:20060102175955j:plain

主な登場人物

まずはこのストーリーの登場人物から。

f:id:jonny1205:20200302201045j:plain

清王朝は1911年に滅びましたがその最後の皇帝は「ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)です。清滅亡後は天津の日本租界にいましたが、のちに日本の関東軍からある声がかかります。

清の崩壊後は勢力争いが活発で南側では蒋介石、北側では張作霖と言う者が軍を率いていました。

まず、この3人はおさえましょうね。

 

時代背景

1894年の日清戦争で敗れた清には西欧の列強国が入り込み半植民地化されていました。ロシアも清に進出しており、日本と権益でぶつかり、1904年に日露戦争が起こります。日本はロシアに勝利し南満州鉄道権益を手にしました。

満州と言うのは北朝鮮の北側にある中国の領土です(下図赤いところ)。

f:id:jonny1205:20200302195707j:plain

その後、中国では辛亥革命(1911年)が起こり、清王朝が滅びました。この時の最後の皇帝が愛新覚羅溥儀です。体制が変わると、国の覇権をかけて内戦がおこりました。

この中国での内戦は日本にとってはさらに中国内での権益を獲得できるチャンスだと考え、1915年に日本は対華21カ条要求をつきつけ、山東省・大連・旅順・満州のあらゆる権益を手に入れました。

また日本は1919年にこれらの地域の警備目的に関東軍を設置しました。

「21カ条の要求は強要されたものだ」

中国はこれを取り消すように要求しましたが、日本は受け入れず。中国内で反日感情が高まっていきました。

 

離れる張作霖

国の覇権をかけてつづく内戦。蒋介石は南側の南京を本拠地としました。一方、北側には満州を支配した張作霖が北京まで支配を延ばしました。そこで蒋介石は張作霖たちを倒すために”北伐”を開始します。

f:id:jonny1205:20200302204010j:plain

当時の勢力図

すると日本は山東省にある日本の権益と日本人を守るという名目で山東省(北京の南側)に軍を派遣しました。実はこのとき日本は張作霖をサポートしていました。というのも、張作霖に言うことを聞かせて満州の権利を手に入れようとしていました。

しかし、張作霖は段々と日本と距離を取っていきました。

 

張作霖爆破事件

蒋介石率いる国民革命軍の北伐により、張作霖は中国で権益を持つ欧米からの援助を受けるために、日本との友好関係を切ります。当時、大陸進出に乗り遅れていたアメリカは特に積極的に乗り出してきました。 

張作霖はその後 反日姿勢を張りました。日本が権利を持つ南満州鉄道に対抗する鉄道会社を欧米資本を取り入れ作ろうとすると、日本は怒りました。

 

f:id:jonny1205:20200301153457j:plain

張作霖爆殺事件

1928年6月4日 張作霖の乗る特別列車が奉天(瀋陽)付近を通過中爆発し、張作霖は死亡しました。これが張作霖爆殺事件です。
日本の関東軍は張作霖をいなくして満州を直接占領しようとしたのです。

 

満州への執念

張作霖爆殺事件が日本の仕業という真相がわかると、当時の田中内閣は責任を問われ総辞職しました。一方、張作霖の息子・張学良もこの事実を知り、なんと敵対していた蒋介石に降伏し合流して一緒に日本と戦う方針としました。

日本は今後アメリカと戦争になるだろうと予想しており、大陸進出は重要であると考えていました。そのため、自ら南満州鉄道を爆破し、それを張学良のせいにしたのです。これが柳条湖事件(1931年)です。

f:id:jonny1205:20200302211420j:plain

柳条湖事件

 

朝鮮軍の派兵と満州国設立

柳条湖事件を理由に関東軍は再び満州へ乗り出します。関東軍は奇襲攻撃などをしますが、張学良の軍(45万人)の前に関東軍(1万人)は太刀打ちできませんでした。そこで関東軍は、本来は天皇の許可がいるのですが独断で朝鮮軍を満州へ派兵しました。

「これは関東軍の自衛行為である」

こうして朝鮮軍の力を借りて関東軍はハルビンを含む中国東北部を制圧しました。

日本は直接支配するときの住民の反発と世界からの批判を避けるために、ここで清の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を擁立し、1932年 満州国という傀儡国家を作ったのです。

f:id:jonny1205:20200302211008j:plain

満州事変の推移

若槻内閣の総辞職

このときの人物で押さえておくべきは若槻総理大臣幣原外務大臣です(上図参照)。幣原外交と言う協調外交を推進しており、若槻総理も一連の満州でのあれこれ(満州事変)をこれ以上大きくさせない方針を打ち出していました。

これをよく思わないのは関東軍です。内閣の意志を無視し行動、さらにはクーデター未遂となる十月事件まで起こしました。

軍のコントロールができなくなった若槻内閣者総辞職しました。

 

日本の国際連盟脱退

張作霖爆殺事件や柳条湖事件は世界からも非難されました。

1932年 国際連盟はリットン調査団を派遣し、これらの”満州事変” の真相を調べさせました。その結果から関東軍の自作自演なども判明し国際連盟は満州国を認めず、日本に撤退を求めました。

それに不満な日本は国際連盟を脱退したのです。

国際連合と国際連盟はコチラ

www.multilingual-doctor.com

 

つづく

つづきはコチラ

www.multilingual-doctor.com