マルチリンガル医師のよもやま話

マルチリンガル医師の世界観で世の中の出来事を綴ります

MENU

【再訪】日本航空123便墜落事故

お盆で実家に帰省するたくさんの人たちが乗ったジャンボ機が墜落して520名の命を奪った史上最悪の航空機事故から40年が過ぎました。

ネットでは、米軍関与説、自衛隊関与説がまことしやかに拡散されています。

基本的なことを知らずに、youtubeなどで学ぶと、それが自分の中での”基本情報”になってしまい、『陰謀論者』をまた生み出すことになります。

ということで、今回は、基本に返って、この事故を『事実ベース』で学んでみましょう。

日本航空123便

1985年8月12日、日本航空123便は、羽田発・伊丹行のジャンボでした。

定刻(18:00)より12分遅れて離陸し、その12分後の18:24に異常が起きました。

飛行機は非常に高い所を飛ぶので、気圧が低いので、客室内は加圧して快適な空間を作っています。

圧力隔壁と垂直尾翼

こういった、気圧の調整に重要な圧力隔壁というものが、機体の後部にあります。

この圧力隔壁が激しい衝撃音とともに破損したのです。

これにより、激しい空気の流れが起こり、圧力隔壁の後ろにある、補助エンジンやバランスをとるための垂直尾翼などが破損しました。

飛行機のバランスは崩れ、さらに圧力隔壁の後ろにある油圧操縦システムも壊れたため、操縦不能となったのでした。

羽田帰還へ

機長はトラブル発生を報告し、羽田空港への帰還・緊急着陸を要請しました。

管制からの返事は『OK』、空港では緊急着陸の準備が進められました。

しかし、油圧系は故障しており、バランスを保つ垂直尾翼までも失い、操縦はうまくいきません。気づけば、機体は羽田の方向からは大きく逸れていったのでした。

名古屋空港への緊急着陸の案も

管制側は、操縦困難な状況から、旋回の回数も最小限で済む名古屋空港への緊急着陸を提案しましたが、機長は着陸後の措置の手厚さから羽田帰還を希望しました。

また、市街地に近い名古屋空港へ操縦困難な機体の着陸は2次被害のリスクも大きいです。

ロストコントロール(操縦困難)

そうこうしているうちに、客室内の荷物入れや後方ドアが破損したりと事態は悪化していきました。

爆発音から20分が過ぎた頃(18:45)、航空無線を傍受していた米軍・横田基地から123便の支援の申し出があり、横田基地への緊急着陸の準備も進めていました。

最後の交信

18:55に管制より羽田も横田基地もどちらも緊急着陸の体制が整った旨の報告があり、123便からは「了解」の返事がありました。

その直後、管制よりどちらにするかの意思確認をしましたが、返答はなく、これが、最後の交信となりました。

18:56 墜落

その時、機体は風にあおられ急降下を始めていました。

18:56には、機体の後部が尾根の樹木に接触し、第4エンジンが脱落しました。

機体は不安定なまま大きく揺れ、右主翼が尾根に衝突、すべての電気系統も遮断され、墜落しました。18:56 奇しくも、伊丹空港到着予定時刻でした。

衝撃の少なかった後部座席は、分離され、尾根に対して比較的水平に飛行したため、衝撃も軽く、奇跡的に4人の生存者がいたのです。

捜索活動の停滞

レーダーから消えたため、管制は防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などに通報し、捜索を開始しました。

19:15、横田基地からの指令を受けた米空軍機が、現場付近で大きな火災を発見し、墜落現場として報告、19:21には、航空自衛隊の戦闘機も現場の炎を確認しました。

現場は大きな火柱が複数あり、空からの偵察では現場がうまく見通せませんでした。

空からの救助は無理

そんな中、巨大な炎の中に、隊員が入り込むのは危険で二次災害のリスクが大きく、近くには送電線が張り巡らされており、それも行く手を阻みました。

また500人を超える乗客をヘリに一人ずつ上空へ連れて行くなんて不可能で、実際は地上からの救助以外方法はありませんでした。

消防隊なども続々と駆け付けますが、原生林の生える現場には道などなく、救助隊は徒歩で山道を進むしかありませんでした。

墜落位置の予測はバラバラ

GPSのない時代で、相次いだ目撃情報や、各部隊からの墜落予測値にかなりのブレ(最大6kmのブレ)があり、情報が錯綜していました。

地上部隊が正確な位置情報をわからず、真っ暗闇の険しい山道を進み、現場に着いたのは事故発生から11時間半経った翌朝9時でした。

このような場所に『証拠隠滅のために火炎放射器で燃やした』説がいかにアホくさいかわかりますね。

『火炎放射器で証拠隠滅』無理やろ

救出された4名以外は『即死』とされていますが、生存者によると、墜落直後は多くの人の声が聞かれたが、徐々に減っていったとも言われており、救出作業が早ければもっと多くの人が助かったとも考えられます。

海上への不時着ならば状況は大きく変わっていたかもしれません。

ボーイング747

さて、この日の日本航空123便に使用された機体は、ボーイング747と呼ばれる機種で、この事故の11年前に製造されたものでした。

この飛行機は墜落事故の7年前と3年前に2回事故を起こしています。

1978年6月2日、日本航空115便(羽田⇒伊丹)は、伊丹空港着陸時にパイロットの操縦エラーで”しりもち”をついたのです。

この事故で、機体尾部は激しく損傷し、圧力隔壁にも亀裂が入ったため、ボーイング社に修理を依頼しました。

しりもち事故で圧力隔壁に亀裂

修理後、修復部位をJALは確認しておらず、この時に気づいていれば・・・

また、1982年8月19日の羽田⇒千歳便に充当された際、視界不良の中、機長が副機長に操縦をさせ(JALの規定違反)、滑走路から逸脱し、第4エンジンが地上と接触する事故もありました。

状態でいうと大手術後に何度か入院した患者さんという感じだったんですね。

事故調査

事故調査委員会が8月14日から調査を開始しました。

また、製造したボーイング社がアメリカなので、アメリカの国家運輸安全委員会からも調査員が送り込まれました。

後部圧力隔壁をくまなく調査していると、修理ミスが見つかったのです。その隔壁をアメリカに送って精密検査をしたところ、金属疲労が見られました。

こうしたことから、1978年のしりもち事故の際、ボーイングの修理ミスがあり、それによる金属疲労で圧力隔壁が破損したという風に事故調査はまとめられました*1

事故調査報告書

しかし、運輸省はこの『修理ミス』が原因だという報告書を出すのを躊躇っていました。

当時は戦後40年で、中曽根首相は、新たな日米関係を模索しており、より強い協力関係をアピールしていた最中で、日本としてはボーイング社に矛先が向くのを避けたかったのではないかとも言われています*2

実際、日本航空はこの事故が『修理ミス』が原因の可能性となった後も、ボーイング社を提訴しておりません。

『新しい日米関係』の為に曖昧に?

一方で、「アメリカは自国のボーイング社をかばった」とも言われますが、実際は、アメリカ側がボーイング社の「修理ミス」をリークした*3*4のです。表にしたくなかったのは日本の方でした。

こうして、ボーイング社も、修理ミスがあったことを認めました。

根拠のない陰謀論

GPSがなく、夜の原生林道なき道を進むしかない捜索活動は難航しました。

この初期対応の遅さが死者を増やしたと考えられており『意図的に遅らせたのでは?』という陰謀論があります。

『米軍(or自衛隊)が立ち入り禁止にし、証拠物品を回収した』などという陰謀論ができ、彼らが誤って打ったミサイルが当たったと発展していきます。

もちろん、これらには根拠などありません。

陰謀論がはびこる

そもそも、ミサイルって時速1000km以上で移動するのに、そんなものが飛行機の垂直尾翼に命中したのにそのとき機体に大きな横揺れが記録されていないんです。ありえませんね。

しかし、これらを妄信してしまった人たちの中では、それに合わせるかのような捏造も起こっています。例えば、『待機命令を無視して救助に行った隊員を射殺』したなどというNHKの偽テロップを作って拡散したり・・・

もちろん、NHK自体も『そのようなテロップは捏造』だと*5否定しています。

元ネタが存在?

だいたい、こういう系の物は、過去にあった”元ネタ”があって誇張したものが広がります。だからこそ、余計に”妙に信ぴょう性がある”んです。

自衛隊が民間機を墜落させてしまったというのは元ネタがあるのです。

日航機事故よりさらに15年近く前の1971年に雫石衝突事故がありました。

雫石衝突事故

千歳発・羽田行の全日空58便が、岩手県の雫石町上空を飛行中に航空自衛隊の戦闘機と衝突し墜落した事故がありました。

自衛隊の乗員は脱出成功し助かりましたが、全日空側は162名全員死亡したのです。

当時はレーダーの性能や整備もさることながら、航空交通の急速な発展にルール整備は追い付いていなかったことが重なりました。

実際、1950-60年代はアメリカでも民間航空機と戦闘機の衝突が続いていました。

雫石衝突事故以降、国内では、航空法が改正され、航空管制空域での訓練飛行は禁止されたり、全国でレーダー網が整備されました。

さいごに

いかがでしたか?今回は日航機墜落事故について学びなおしてみました。

巷に広がる、自衛隊関与説などは根拠がなく、あくまで過去の事故を織り交ぜた想像にすぎません。(もちろん100%ないとは言い切れませんが)

しかし、こういった陰謀論が広がるのは、不信があるからです。

政治的理由で事故原因の公表をためらったり、機体の残骸らしきものが2015年に相模湾で見つかった*6時も、引き揚げを行おうとしないなどから余計に根強く広がるのでしょう。

まずはファクトベースで事故を知った上で、色々な意見を見てみると、突拍子もない論はすぐに見抜けますね

 

では、また(^^♪