14人の死者と約6300人の負傷者を出した地下鉄サリン事件から28年が過ぎました。
今回はオウム真理教はいかにしてできたのか、そしてなぜこのような悲劇が起きたのかについて学んでいきましょう。
恨みの積み重ね
熊本県の貧しい畳屋の四男*1として生まれた松本智津夫は、生まれつき左目に緑内障による弱視がありました。しかし、右目は見えていました。
他の兄弟も弱視や全盲がおり、熊本県ということもあり、水俣病によるものと考え、役所に『水俣病患者』申請するも却下されました。
ちなみに水俣病の原因であったメチル水銀の視力への影響は両側性であり、全身に他の神経症状が出るのが一般的なため、あまり関係はなさそうです。
その後、盲学校へ進学。右目が見えるのに盲学校へ入れられることで『親に捨てられた』と感じました。実際、20歳で卒業までの13年間、親は一度も会いに来ず、仕送りすらなかったのです*2。
自分のように病気で困っている人を助けたいと医師を目指しますが、当時は視覚障碍者は医師免許が取れなかったため諦め、鍼灸師の資格を取りました。
学生の間は児童会長、生徒会長、寮長などに立候補しますがことごとく落選し、『教師の陰謀』だと考えるようになりました。
暴力による支配
右目が見えたため、盲学校では全盲の子供たちを子分扱いし、暴力で支配しました。
全盲の生徒を落とし穴に落としたり、リンチをさせたり*3、カツアゲで300万貯めたりとやりたい放題でした。
また、政治にも関心を持ち、毛沢東や田中角栄を尊敬し、のちには『総理大臣になる』という夢を持つようになりました。
宗教にハマる
盲学校卒業後は熊本で兄の仕事を手伝っていましたが、22歳で上京し、代ゼミに通い始めました。そこで出会った石井知子と結婚し、千葉で松本鍼灸院を開院しました。
鍼灸師をしているうちに、「完全に治すことはできない」ことに落胆し、段々と占星術や神秘体験、ゆくゆくは宗教にハマっていきました*4。
転機が訪れたのは1980年、鍼灸の保険料の不正請求が発覚し、返金を要求されたことでした。その後、阿含宗という超能力を使うスピリチュアルな新興宗教に入信しました。
その後も効果不明の無許可な薬品を販売し、薬事法違反で逮捕されました。
これで、現実逃避からか、さらに宗教へのドップリが深まります。
麻原彰晃とオウム真理教
ようわからん経営塾をやってる人に弟子入りし、『彰晃』という名を授かると、入信していた阿含宗は「なんか違う」と脱会しました。そして、自らヨガや東洋医学や超能力を掛け合わせ謎の塾『オウムの会』を開設しました。
その際に、”阿修羅”の言葉に似た『麻原』をつけ、麻原彰晃と名乗るようになりました。
1987年、ただのヨガ教室でなく、税法上で優遇のある宗教法人になり、勝手に仏教系を名乗りました。これが『オウム真理教』のはじまりです。
そして自分で本を書いたり、オカルト雑誌に広告を出したりし、徐々に信者を獲得していきました。
信者の死
オウム真理教では俗世から離れて修行に専念するため信者は出家します。
集団生活の中で道場で厳しい修行を行っていると、中には精神錯乱に陥る信者も出ました(薬物中毒説もある)。
1988年2月、一人の信者が暴れだしました。麻原は幹部に『頭を冷やさせろ』と指示、逆さづりにして浴槽に顔を突っ込みました。すると、その信者は心肺停止となり、そのまま死亡しました。
当時、税法上有利な宗教法人の認可前のオウムでこのような事件が明るみに出ると、認可されないことはほぼ確実です。すると、麻原は教団内で遺体を焼却するように指示しました。
また、秘密を洩らしたものは『地獄に堕ちる』と言いました。
しかし、この一部始終を幹部以外にも見ていた者がいたのです。その信者がオウム脱会を希望すると、麻原は口封じのために『ポア』を指示しました。
こうして、裏切ろうものなら次は自分が・・・この恐怖政治が始まったのです。
坂本弁護士殺害
オウム真理教の出家信者の家族たちから相談を受けた弁護士らが、オウムの反社会性などを批判しはじめました。
オウム真理教が行ったインチキ霊感商法などの訴訟を進めようとしていたのが、坂本弁護士でした。
当時、オウム真理教は翌年にある衆議院選挙に麻原が出馬することを決めており、このような訴訟は邪魔になると考えました。麻原は坂本弁護士をポアするように指示しました。
そして、弁護士の自宅へ侵入し、坂本弁護士と妻、1歳の子供の3人を殺害したのです。
子供まで殺害した麻原の言い分は、自分も子供のころ親と離れていて苦労したから子供だけ生きてもしょうがないという身勝手な理由です。
警察の大きなミス
実はこの時、実行犯(ちなみに医師)が現場に教団のプルシャ(バッジ)を落としていたのです。
そのため、当初からオウム真理教の関与は強く疑われていました。
ところが、坂本弁護士の所属していた弁護事務所はバリバリの共産党系の弁護士事務所で、県警とはかねてより対立していたのです*5。
坂本弁護士殺害後、取材に対して県警は、『共産党の内ゲバ』や『借金を抱え失踪』とマスコミにリークしていたのでした。
オウム真理教もこれに便乗しました。
そして、オウムはこの頃から積極的にメディアに進出し、潔白を主張するようになりました。
この警察のミスにより、オウムのこの後の犯行を止めれなかったのかもしれません。
衆議院選挙惨敗
1990年、予定通り衆議院選挙に麻原は出馬しました。あの耳に残る歌は記憶にあるのではないでしょうか?
結果は惨敗。すると、麻原は謀略を主張します。この社会を潰すしか、世界が救われる手段はないとし、無差別テロを計画しました。自己愛型パーソナリティー障害の極みです。
この頃、東大などで頭のいい大学生らを洗脳しては、『いい国』を作るためにサリンや炭そ菌を作らせました。
当時、同じく新宗教として注目を浴びていた創価学会の会長:池田大作をサリンの最初のターゲットにしましたが、これは失敗に終わりました。
また、土地の買収問題でもめたことで、1994年 松本サリン事件を起こします。
オウム真理教の関与が強く疑われ、強制捜査秒読みと言われていました。
地下鉄サリン事件
1995年 1月 阪神淡路大震災が起こり、警察による強制捜査は延期となりました。
麻原は『大震災のようなことが起きれば強制捜査はまたなくなる』と考えました。
そうです、それが2か月後に起きた地下鉄サリン事件です。
現場は各省庁の集まる霞が関、つまり官僚や関係者を狙ったテロでした。これにより国の機能は麻痺します。
ここから先も、オウムの国家転覆計画はありましたが、最終的に麻原の逮捕で終わりました。
さいごに
いかがでしたか?
恵まれない家庭に生まれ、親に捨てられたと恨み、盲学校では暴力で支配し、いじめ・カツアゲをした少年が、目が見えないことで医師になる夢を捨て、社会を恨み、宗教にのめりこみ・・・最後は自らが国を支配するという野望を持っていました。
そんな中、一人の信者の死を隠すために、どんどん『ポア』が行われていき、また本人の陰謀論と異常なまでの被害妄想は最終的に地下鉄サリン事件を起こしました。
ヤバい人は野放しにしてはいけないということがよくわかりました。
では、また(^^